子どもなりの自尊心〜田舎の子と呼ばれた私とお盆の思い出〜
こんばんは。
お盆ですね〜。我が家もご多分にもれず、実家に帰省しております。
しかも、祖父母、曽祖父母の家それぞれを訪問したり、新盆で親戚が集まったりしているので、普段ではありえないほど人に会ってます。
(正確には、私を認識してる人に会っている)
さて、今日は「自尊心」の話。
田舎の子と呼ばれた私
私の実家は東京をはじめとする首都圏から離れたところにある。
私が小学生の4、5年生の頃、祖母と妹とこの首都圏内の叔母の家に遊びに行くことになった。
夏休みということもあり、なかなか旅行に行けなかった私にとっては、最大のビックイベント。
出発前の準備の段階から楽しみで仕方なかった。
そして、いざ叔母の家に出発!
新幹線、電車と移動し駅まで叔母が迎えに来てくれた。
いつも、私が住む家でしか会ったことがなかったので、新鮮である。
また、実家とは全く違った街並み=都会の景色や人の多さにただただ圧倒された。
水族館や遊園地、オシャレなレストラン、広いショッピングモールでの買い物。
小学生の私は、いつもと違った叔母との夏休み生活を目一杯楽しんだ。
さらに、年上のいとことも会える!遊べる!
そんなとき、衝撃の一言が聞こえて来た。
1日遊んで、叔母宅に入ろうとしたとき、近所のおばさんに会った。
叔母は私と妹をこう紹介した。
「田舎の子です」
一瞬、耳を疑った私。
でも確かにそう言った。小学生にもなれば、田舎という意味も理解できる。
実際、スーパーまで車がないと行けない不便な土地に住んでいるのは事実である。
田舎…この言葉自体が悪い言葉ではない。
それでも、紹介されるのに「田舎の子」と言われてしまうのは、子ども心にショックだった。
田舎の子発言の理由
やはり、土地柄だろう。
首都圏から離れた地方。
よく言えば、自然豊かな場所。
悪く言えば、自然しかない不便な土地。
そして、うちの父も姪っ子や甥っ子=私のいとこに
「田舎に遊びにおいで」
とよく言っていた。
だから、叔母にとっては何の抵抗もない言葉。
うちの父も田舎という言葉をよくないイメージで捉えていない。
むしろ、自然豊かな所でのびのびと生活できていることを自慢げに話している。
それから、叔母的には田舎=ふるさと、故郷というニュアンスで使ったかもしれない。
では、なぜ私にとってはそれほど衝撃的な言葉になったのか?
それは、私の中に都会>田舎という図式があったからだろう。
田舎であるということへの劣等感。
都会は利便性や娯楽施設の面では、圧倒的に優れている。
また、田舎=経済力が低いとか
東京=物価が高い所で暮らせる経済力がある
みたいなイメージもあった。
それから小学生の私が感じた1番の違和感は、「田舎=小馬鹿にされた感覚」
があったからだろう。
田舎という事実にショックを受けたというより、見下されたような態度に思えたことに、ショックを受けたのだ。
子どもの自尊心
今振り返ると、子どもなりに感じることはいっぱいあって、その年齢なりの自尊心があるということがわかる。
私は親になって、子どもの自尊心を意識しなくちゃなーと思うことが増えた。
というのも、私の記憶の中では、お正月やお盆に親戚が集まると良い思い出ばかりではなかった。
人が集まると、大抵は子どもネタで会話が盛り上がる。
我が家族は、私が運動会で転んだとか、言ってほしくない話題で笑いをとろうとすることがあった。
私は何度
「なんで言うの?」
と憤慨したことだろう。
決まって私をネタにした家族の答えは
「いいじゃん、そのくらい」
全然よくないのに…
そんなエピソードは山ほどある。
自尊心とは言い換えればプライド。
以下、
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
からの引用。
自尊心
じそんしん
この引用文から分かるように、周りの大人、特に両親の評価、言葉かけが、子どもの自尊心の起源となるそうだ。
たとえ親といえども、その子の心の中の成長までは見えないから、難しい。
たまに会う親戚なんか、なおさらだ。
となると、子どもの言動から心の成長を読む、または推し量るしかない。
問題なのは、親子関係という性質上、親が子どもを精神的にまで支配的に扱ってしまい、知らぬ間に自尊心を傷つけてしまっている場合である。
かと言って、子どもを腫れ物に触るように扱うのもどうかと思う。
時々親の言葉の意図を説明してあげたり、言葉の解釈の仕方を教えてあげたりする機会を作ってもいいのではないだろうか?
子どもには子どもの人格や自尊心があるということを忘れちゃいけない。
そう強く思った今年の夏。
親戚と会うたびに、思い出そうと思う。